『健康全書』
ここではかつて『奈良女子大学文学部研究・教育年報』(創刊号)で紹介したデータに、あとになってわかったことを付け加えて説明します。
Ⅰ はじめに
『健康全書Tacuinum Sanitatis』とはなんでしょうか。
『健康全書Tacuinum Sanitatis(より正確にはTacuinum Sanitatis in medicina)』とは、一言でいえば中世後期からルネサンス期のイタリアを中心とするヨーロッパにおいて、健康のために役立つ食物などの情報をまとめた11世紀のアラビア語医学書をもとにして作成されたものです。
もともとアラビア語の医学書にはまったく図版がつけられていません。そもそもTacuinumということばそれ自体が、ラテン語ではなく、Taqwimというアラビア語の単語の音をうつしたものといわれていますが、Taqwimということばは、おそらく「表」を意味することばであろうといわれており、いろいろな事項が表になっていることからこの名前がついたと考えられています。
著者曰く、いろいろなデータは、ただダラダラ書いているとわかりにくいので、表にして表すとよくわかると思うから、このような書き方をした」のだそうです。たしかにいっぱい字がつまっているものをみて、めざす情報にたどり着くのはなかなか大変です。
この本がアラビア語からラテン語に翻訳されたのが中世中期の地中海沿岸の地方。そのまま翻訳されていたのですが、おそらく14世紀後半になって、それぞれの事項に図版がつけられるようになります。図があるとよくわかるというのもまたうなずけることですが、そのために当初のような表というありかたはとれなくなってしまいました。そのため、本当は『健康表』と訳す方が原語を反映しているのですが、あえて『健康全書』という訳にしておく方がよいと判断して、ここでは『健康全書』ということにします。
Ⅱ Tacuinum Sanitatisの写本研究
私が現時点までに知りえた図版入りのTacuinum Sanitatis写本をあげておきましょう。
- Wien, Österrreichische Nationalbibliothek codex vindobonensis series nova 2644(W2644刊行)
- Roma, Biblioteca Casanatense, ms. 4182. タイトルはTheatrum Sanitatisとなっている。(R4182刊行)
- Paris Bibliothèque Nationale de France, ms. Nouvelle acquisition latine 1673.(P1673刊行)
- Liège, Bibliothèque de l’Université de Liège, ms.1041.(L1041刊行本で全ての図版がわかる)
- Rouen, Bibliothèque Municilpale ms.Leber, 1088.およびSam Foggで展示されたもの(R1088この2つの写本は対比すれば、もともと1つの写本であったことがわかる。Sam Foggのものは過刊行本で全ての図版がわかる)
- Wien, Österrreichische Nationalbibliothek codex vindobonensis series nova 2396(W2396 刊行)
- Wien, Österrreichische Nationalbibliothek codex vindobonensis series nova 5264(W5264未見)
- Paris Bibliothèque Nationale de France, ms. Latin 9333.(P9333 刊行)
- Granada, Universidad Granada, Codex granatensis C-67(ff.2v-116r).(GC-67 CDで見ることができる)
- New York, Pierpont Morgan Library, m.494.(Pi494)
- Dessau, Landesbibliothek, MS George 271.(D271未見)
- Lugano,Fondation B.IN.G. Bibliothèque Internationale de Gastronomie Ms.15(Lu15)
があります。
RomaのBiblioteca CasanatenseにあるHistoria Plantarum (Roma, Biblioteca Casanatense, ms.459)も Tacuinum Sanitatisと呼ばれることがありますが、これは別のものです。
Ⅱ Tacuinum Sanitatisの研究史
1 このTacuinum Sanitatisの写本研究は、1895年 J.フォン・シュロッサーがオーストリアの皇室コレクションにTacuinum Sanitatis in Medicinaというタイトルのすばらしい絵がはいった写本を発見したことを記したことから本格的に始まりました。 翌1896年、この論文をうけて フランスのL. ドリスルがパリの国立図書館にも同種の写本があることを指摘し ました。さらに1905年G.フォゴラーリがローマのCasanatense図書館にも類似の写本があることを指摘した。 既に19世紀に存在が確認されていたリエージュ写本のL1041とルーアン写本R1088をあわせて、Tacuinum Sanitatisの図版入り写本の比較研究が進められることになります。
2 次の大きな研究の盛り上がりは、1950年代にみられることになります。1950年パリの国立図書館、1952年ウィーンで装飾写本の展覧会が開催され、写本目録が作成されたことが大きなきっかけでした。しかし、ルネサンス芸術の宝庫であるイタリアにおいて、名だたる芸術家の作ではない図版入り写本は、一部の美術史家の目を除けばあまり注目されることはありませんでした。とりわけ、14、15世紀の芸術といえば、あまりにも有名なフィレンツェを中心とするトスカナ地方の芸術がまず研究対象とされ、北イタリア芸術は副次的な扱いがされていたようです。そんななかで、1958年ミラノで「ヴィスコンティからスフォルツァ時代のロンバルディア芸術」(Arte lombarda dai Visconti agli Sforza) に関する展覧会が開催されました。このときに、初めて展示されたCasanatenseのR1088をはじめ多くの写本が展示されたことにより、Tacuinum Sanitatisは人々の目に触れることになります。この結果として、北イタリアの図版入り写本の持つ意味がより広く認識されるようになったようです。さらに1975年 L.C.アラーノが、W2644、RC4182、P1673とL1041、R1088の5つの写本の比較研究を刊行し、同書の英訳が出たことによって広く知られることとなりました。
3 1980年以降、より一般的な装飾写本に対する関心の高まりと、「知的財産」としての写本の保存の二つの側面から、各地の写本のファクシミリ版が刊行されるようになります。『健康全書』でも、W2644、W2396、RC4182、P9333が刊行され、L1041は所蔵しているリエージュ大学の専門家によって大きな刊行本が出ています。21世紀にはいってからも リヒテンシュタイン公が所蔵し、その後アメリカ人の個人のコレクションに入っていた写本が競売にかけられるにあたって、ルーアン写本を補完するものであったことが明らかにされていますし、各地の健康論の進展、食の文化やイメージの研究の進展は、この『健康全書』に光をあてるものになっています。
Ⅲ『健康全書』の著者と医学上の位置づけ
このTacuinum Sanitatisの著者はどのような人なのでしょうか。
最初にも述べましたように、この本はもともとアラビア語で書かれたものです。現在ラテン語で本文が書かれているTacuinum Sanitatisの写本の著者は、写本の序文にEllbochasim de Baldach(W2644)、Albulkasem de Baldac(P1673)、Ububchasym de Baldach,(RC4182)と明記されています。
表記はかなり違いますが、Baldach, Baldac, Baldakはいずれもバグダッドを示しています。名前の方もかなり違った印象を与えますが、同じ人物です。この表記の違いが、写本を探すときの障害となっています。
アラビア語でいうと、著者は、Ibn Buţlān al-Mukhtār ibn al-Hasan ibn Abdūn ibn Sa’dūn ibn Butlān となり、通常イブン・ブトランIbn Butlānと呼ばれている医者です。
イブン・ブトランは、バグダッドの医者イブン・タイジーブIbn Taijibの弟子で、バクダッド出身ですが、キリスト教徒おそらくネストリウス派キリスト教徒と推定されています。
知られている限りでいえば、彼は1049年1月にバグダッド出発し、エジプト方面に向かいました。途中立ち寄ったアレッポでは、病院の建設についてアドバイスをおこなったようです。当時バクダッドは病院という点でおそらく世界でもっとも進んだ体制を持っていたようですから、そこから来た医者となれば、いろいろなアドバイスを求められたのでしょう。アンティオキア、ラディオキア、ヤッファなどで活動した後、カイロに到着。1049年11月には、著名な医者イブン・リドワーンIbn Ridwânと活発な論争を繰り広げます。この論争は相手が当時高名な医者だっただけに、かなり注目されたようです。
彼は3,4年カイロに滞在したあと、1054年頃コンスタンティノープルに滞在していたことが知られています。当時はコンスタンティノープル総大主教とローマ教会からの使節の対立の最中でした。世にいう「東西教会の分裂」事件となるものです。イブン・ブトランはそのコンスタンティノープル総大主教から無酵母パンの使用に関わる論考を依頼されたようです。その後、イブン・ブトランはアンティオキアで病院建設などに活躍したあと、同地で修道院に隠遁。1064~1068年頃までは生きていたようといわれています。
彼の著作としては、『健康全書』のもととなったTaqwim al-sihhaがもっともよく知られています。現存する写本の数からも、この著作が影響力をもったことがうかがえます。彼自身がそれほど有名な医者ではないことを思えば、彼が採用した「表形式」の持つ意味が大きかったと思われます。
医学史上の『健康全書』の位置
イブン・ブトランの『健康全書』が医学史上、どのような位置を占めるのかを確認するためにも、簡単に当時の医学のありかたについて概観しておきましょう。
彼が活躍した11世紀は、イスラーム医学の繁栄期です。
イスラーム医学は、古典古代のヒポクラテス、ガレノスの業績を受容し、そこにインドなどの東方の医学知識を加えて発達したといわれています。
その中心はバクダッドの「賢者の家」です。ここで、イスハークHunain ibn Ishāqは、ガレノスの膨大な著作をアラビア語に訳すとともに、『イスハークの医学入門Isagoge』を著しました。そしてイブン・ブトランが活躍した時代には、医学知識を集大成したアル・ラーズィーAl Rhāziやイスラーム医学の大成者であるイブン・スィーナIbn Sīnaが出ています。イブン・スィーナーは西洋ではアヴィケンナAvicennaとして知られており、彼の『医学典範Qānūn』は、多くの医学書とともにクレモナのゲラルドゥスによって、スペインのトレドにおいてラテン語に翻訳されました。そして、11世紀の南イタリアのサレルノから本格的な発展を遂げる西洋医学の基本的教科書として長く用いられることとなるのです。
一般にイスラーム医学は、古代の医学を発展させつつ、中世以降の西洋医学を結びつけたといわれています。そこにみられる医学、健康に対する姿勢は、基本的に、古代地中海世界が生み出した医師の祖ヒポクラテス、2世紀のローマ帝国で多くの著作を書き残したガレノスを継承したものです。
そのヒポクラテスのことばとして伝えられる次のことばは、当時の医学の立場をよく示すといわれています。
「ことばが癒し得ぬものは、薬草が癒す。薬草が癒し得ぬものはメスが癒す。メスが癒し得ぬものは死が癒す。」
「医者は、人々に対して、自分で正しい生活術を身につけて、バランスのとれた健康状態を維持できるようにアドヴァイスをする。それでもうまく望ましい健康状態にならない場合に、薬を与える。それでもうまくいかなければ外科的処置をおこなう。となれば、まず医者がおこなうべきことは、人々に正しい養生訓を与えることなる。」
イブン・ブトランが、この『健康全書』で書こうとしたのは、まさしくこの養生訓です。写本は、次のような序文から始まっています。
序文 医者は語る。
「医学の観点からみたTacuinum Sanitatisは、食べ物や飲み物、着るもの、からだによくないことを語るためのものである。古代の最高の助言に結びつけて、問題点を遠ざけるためのものである。
Tacuinum Sanitatisは、毎日健康で過ごしている人になら誰でも必要な6つのこと、その正しい使用法、その効果に関するものである。
第1点は、心臓に関わる空気についてである。
第2点は、正しく食べたり飲んだりするやりかたである。
第3点は、運動と休息の正しいやりかたである。
第4点は、過度の睡眠あるいは過度の不眠の問題点である。
第5点は、体液(humor)を正しく保持し、排泄するやりかたである。
第6点は、喜びや怒り、恐れ、不安において節度を守り、人格を正しく統制しようとするものである。実際、健康を維持することは、このような要素のバランスにかかっている。というのも、このようなバランスが崩れることによって病気になることを、輝かしく至高の神は認めておられるからである。
多くのさまざまな有益なものについて、このような6つの分類分けをしよう。そして、神よ、われらはその性質について語ろう。さらに、人によって異なる性質、年齢にあった選択がどのようなものであるか語ろう。そして、このような要素を単純な表の形で示そう。なぜならば、多くのさまざまな本に書かれている知恵と矛盾は、読者にとってうんざりするものであろうから。実際、人間は科学から他ならぬ利益を引き出そうとするものである。議論ではなく、はっきりとした定義を求めるものである。これに従って、この書物において、われらが意図するところは、長々しい論議を短くすることであり、さまざまな考えをまとめようとすることである。また、われらが意図するところは、古代の人々の助言を無視することではない。かくして、神はわれらの心を正しき道に導きもう。人間というものは一人では失敗をせずにいられない。われらの書物は、全能なる神が、その慈悲によってわれらをしてなさしめ、われらを助けたもう証となろう。」
イブン・ブトランは、全体として新しいことを書いたのではなく、いかにわかりやすく養生訓を人々に伝えるかに工夫をこらしたことがうかがわれます。6つのポイントを健康のための原理とすることは、古代ギリシアからみられますが、それを表にして示したのは、イブン・ブトランが最初です。彼に少し遅れて、イブン・ヤジアIbn Ŷaziaがやはり表形式を利用して、病気と治療法に関する著作 を残したようですが、表という説明様式を大きく取り入れていくのは占星術だといわれています。
なお、このような表形式の採用による著作のため、最初にもいいましたように、Taqwim は、異論があるものの、一般にアラビア語で表を意味すると考えられています。
Ⅳ『健康全書』の写本と刊行
図版なしの写本
イブン・ブトランの著作では、取り上げられた項目280が7つごとにまとめられ、全部で40の表にわたって、その特徴が述べられています。この形式は、データのみのアラビア語写本、その後のラテン語写本に用いられ、1531年シュトラスブルクの印刷業者ハンス・スコットが刊行したラテン語版(タイトルTacuini sanitatis)、同じく1533年のドイツ語版にも踏襲されています。
アラビア語のTaqwim al-sihha の写本は現在17、図版が入っていないラテン語のものが16あります。そのうち、大英図書館にあるも写本ms.Add.3676にはアラビア語にラテン語がついている形となっていて、まさしくイブン・ブトランの著作がラテン語に翻訳されたことがわかります。
それでは、どこでいつ翻訳がなされたのでしょうか。12世紀の著名な翻訳家にクレモナのゲラルドゥスという人物がいて、トレドで多くの医学書の翻訳をおこないました。このクレモナのゲラルドゥス によるという説もありますが、仮説の域を出ていません。
はっきりしているのは、1266年に既にラテン語訳が存在していたことです。それというのも、ヴェネツィアの図書館にある写本(Biblioteca Marciana, Venezia ms.lat.315)に「ここに科学を愛好する輝ける王マンフレードの宮廷で、アラビア語からラテン語に訳されたTacuinumの書が始まる」とあるからです。マンフレードは、1254年から1266年にシチリア王に在位していました。したがって、彼が在位している間に訳されたとなると、1266年までに少なくとも1種類の写本が存在したことになります。
また、いくつかの写本には、1279年からシャルル・ダンジューの宮廷で活動していたFaragius,つまりFaraji ben Salemに言及しています。彼は医学者アル・ラーズィーの著作の翻訳などを手がけており、イブン・ブトランの著作の翻訳をしてもおかしくありません。しかしながら、これまたどのように関与しているかをはっきりさせるにはいたっておりません。はっきりしているのは、14、15世紀には一定程度の写本が存在したことだけです。その数は、さまざまなヴァージョンが作成されたサレルノ起源の『健康規則regimen sanitatis』には及ばないものの、それなりに知られた著作であったことをうかがわせるのに十分であるといえましょう。
図版入りのTacuinum Sanitatis
Tacuinum Sanitatisが、わかりやすさによって世に知られる著作だったとしても、それが図版入りの装飾写本が作成されることに直結するわけではありません。
そもそも、単なる文字のみの写本作成すら、文字が書ける人が限られていた時代には高くつく作業でした。Tacuinum Sanitatisが作成されたと考えられる14、15世紀においては、文字を使うことがほとんど教会関係者か、公証人のように書類を作成する人たちに限られていた中世前期に比べれば、書籍商が登場するなど筆写能力を持つ者が増えていました。しかしながら、本が1冊1冊が手作りであるかぎり、高価なものにならざるをえません。
少し凝った本を求めるとすれば冒頭の文字を装飾で飾り、ふち飾りが入れられましたが、それだけでもかなりの労力になります。まして、しかるべき図を入れるとなると、絵が描けるミニアチュール画家の手を借りねばなりません。絵の描き手は、本文に応じた適切な挿絵をつけられるだけの知識と能力を必要とします。
実際には多くの絵、あるいは装飾をつけることが必要になり、とても一人でできる仕事ではないので、一般には複数の描き手の共同作業となります。つまり、主たる画家を中心とする工房が作業を請け負い、画家と協力者の共同作業で装飾写本が作成されたのです。
このような状況下においては、多くの筆写者とミニアチュール画家を雇い、しかるべき内容を持った豪華な写本を注文することができるのは本当にかぎられた人々、組織であったことは容易に推測できるでしょう。したがって、現存する装飾写本の多くが、王侯や教会のための聖書や時禱書、楽譜、特別な年代記であることも当然といえば当然です。
このようにみていきますと、医学的内容を含む装飾写本が作成されたことは注目できると言ってよいでしょう。「医学的内容」は必ずしも王侯が注文すると考えられないテーマです。王侯は侍医がいてアドバイスを与えてくれればよかったのではないでしょうか。また、より適切な図版を描こうとすればそれなりの当該項目に関する知識を必要とするのですが、医学につながるさまざまな事物の知識を画家に求めるのはなかなか難しかったと思われるからです。
とはいえ、実際には、医学関係の図版入りの書物は、古典古代においてもイスラーム世界でもビザンツ世界でも、そして中世西ヨーロッパにおいても作成されています。たいへん難しい内容を含んでいるからこそ、薬学や技術を示すためには、図解が望ましいと考えられたからでしょう。私にはそのレヴェルを論じることはできないのですが、たとえばHistoria Plantarumにみられる図版の中にはきわめてすぐれた自然描写があることは指摘できます。このような観点からみますと、中世写本をつくった画家たちの知識と技術はもっと評価されてもいいのではないでしょうか。
なぜ、図版入りの『健康全書』が作成された?
さて Tacuinum Sanitatisに話を戻しましょう。
Tacuinum Sanitatisの場合、図版入りの写本はなぜ作成されたのでしょうか。
実際、現存するような大きな図版が入った写本を作成しようとすれば、本来のわかりやすい表形式をくずさねばなりません。いろいろな事物がどのように健康のために役立つのか、この情報を表形式でまとめてあるとすれば、医者ならそれを崩したくはないのではないでしょうか。
それにもかかわらず作成されたとすれば、おそらく医者以外がこのようにむずかしくないレヴェルで健康に対する知識をまとめたものを持っておくことに意義を認めたからだと思われます。
後述のように、この写本が作成された時期は、14世紀後半以降だと考えられています。この時期といえば、14世紀半ばの黒死病の大流行以来、繰り返し疫病が流行していた時代です。黒死病は、14世紀半ばのものが特に有名ですが、実は14世紀だけでもあと数回流行があります。ヨーロッパがペストを克服するためにはあと数世紀を要するのです。とすれば、いつ疫病で倒れるかもしれないという社会不安があったこともその一因として指摘できると思われます。
一方、中世後期には王侯が文化的にも優れていることを誇示することが求められるようになっていたことも、このような医学書が豪華な挿絵入りになったことの要因として挙げられるでしょう。
14世紀半ば以降、特に宮廷文化の花が開いたブルゴーニュ公の宮廷を筆頭に、世俗の宮廷でもすばらしい蔵書を誇るようになります。そのため、従来に比べて、種類の面でも量の面でも格段に写本の作成が進んだことも時代背景として考えておくべきことでしょう。
図版入り『健康全書』の作成時期と作成場所
では次に、Tacuinum Sanitatisの装飾写本がいつ、どこで作成されたかについて考えていきましょう。
といっても、ここで取り上げているTacuinum Sanitatisの写本には、いずれも、誰がどこでいつ作らせたのか、あるいは作成させたのかが書かれていません。したがって、これまでの研究者も、写本の来歴、あるいは写本の図版の性格から作成年代を推定しているに過ぎないのです。私はいろいろな挿絵入りの写本について、それほど詳しく研究できているわけではありませんので、ここでは、先行研究を参考にして、同じような性格を持つ写本として、W2644、RC4182、P1673, L1041, R1088について説明しておきたいと思います。
まず、いずれの写本も14世紀末から15世紀初めの北イタリア、おそらくミラノかヴェローナの宮廷その付近で作成されたものと推定されます。当時の北イタリアの工房は国際ゴシックの流行のなかで交流も多く、はっきりと特定の場所を示すことはできません。
しかしながら、とりわけ1354年から1385年までミラノのシニョーレ(支配者)の地位にあったベルナボ・ヴィスコンティの妻レジーナ(1384年没)は、ヴェローナのシニョーレであるスカーラ家の出身であり、両者の間には密接な交流があったものと思われます。当時ミラノには多くの工房があったことも知られています。とすれば、多くの徒弟がそこで修行していたでしょうし、いろいろな都市を支配する一族からの発注をうけて仕事をすることは当然考えられます。特に、良妻だったとされるレジーナが生きている間は、この2つの都市の間は良好だったようですから、そこに交流があったと考えてもよいでしょう。
それでは次に個々の写本について考えていきたいと思います。
1 P1673
この写本のタイトルページには2つの書き込みがあり、1つの書き込みからもともとベルナボ・ヴィスコンティの娘ヴェルデのものであったことがわかります。
彼女は1365年オーストリア大公レオポルド(つまりハプスブルク家の一員)と結婚しましたが、1405年に亡くなります。
このP1673は、写本の特徴からW2644よりも先に作成されたと考えられています。
この写本について、トルファは以下のようにまとめています。
ベルナボは、レオポルトと結婚するときに、娘のヴェルデのために作成した。つまり、花嫁道具の一つ。ヴェルデはマンデヴィルの旅行記などを持っていたことが知られていて、この結婚の際にTacuinum Sanitatisをも持っていたとしてもおかしくない。
作成したのは、ジョヴァンニ・ディ・ベネデット・ダ・コモの工房で、アノヴォロ・ダ・インボナーテがその作成に参加した。
トルファは、この写本がほかの写本の原型にあたると考えているます。
なお、この写本はおそらくまたヴィスコンティ家に戻ります。その後、この写本は、ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティとイサベル・ド・ヴァロワの娘であるヴァレンティーナがフランス王弟ルイと結婚するときにパリに持っていき、さらに、彼女の叔母にあたるヴィオランテが1368年イングランド王エドワード3世の弟クラレンス公ライオネルと結婚するときに、プレゼントとして渡されたとおされています。
2 L1041
トルファがP1673を最古と考えているのに対して、アラーノが最古と考えられるのはL1041です。
この写本は、その図版の特徴からジョヴァンニーノ・デイ・グラッシと関連づけられて考えられています。
ジョヴァニーノ・デイ・グラッシの出自はよくわからず、1370年代にボヘミアからミラノにやってきたとも、パリ出身のミニアチュール画家ジャン・ダルボワのもとで修行していたとも言われています。しかし、ミラノのドゥオーモ建設の責任者を務めたことでよく知られ、その活動はミニアチュ-ル作成にとどまりません。
ベルガモ市立図書館に残る彼のスケッチブックは、驚くほどきわめて写実的な絵であふれていることで知られ 、ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ(ベルナボの甥で、ベルナボの死後ミラノのシニョーレとなり、1395年からミラノ公)の依頼により、絢爛豪華な『ヴィスコンティの時禱書』 を作成します。
ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティが、ミラノ公位を与えられたことの礼として、皇帝ヴェンツェルへのプレゼントとして贈られたHistoria Plantarumは、その自然描写から、彼の手になるものと考えられています。そして、アラーノは、L1041を、図版の特徴からジョヴァニーニが描いたものと推定しているのです。
ちなみに、Historia Plantarumは、薬草や動物などの情報をアルファベット順にまとめたものです。この本も、時にTacuinum Sanitatisと呼ばれることがあるように、やはり自然科学分野の書物ですが、性格的にはいわば百科事典のようなもので、図版の入れ方、項目数などはかなり異なります。
トルファによれば、1394年にジョヴァニーニは本格的にミニアチュール作成工房を営業することを決めたと推定できる公証人文書があるそうです。もしこの写本の制作年代が1370年代以降であるとすれば、1365年ヴェルデの結婚に合わせて制作されたとされるP1673よりも少し後としてもおかしくはないと思います。
3 W2644
次にTacuinum Sanitatis研究の端緒となったといってよいW2644をとりあげましょう。
シュロッサーは、W2644のf.3vの紋章と図版の特徴から、この写本はヴェローナのチェルーティ家のものと考えましたが、その後1911年、クルトによって、f.1v.の紋章から、この写本はトレント(トリエント)大司教(1390~1419)であったリヒテンシュタインのゲオルクのものとされます。彼は1407年にトレントを旅立ち、二度と戻ることはありませんでした。おそらく写本はそのままトレントにあって、『挿絵付ハーブ集』Herbalarium cum figuris pictisとして、1410年ティロル大公フリードリヒ(ハプスブルク家の一員)が所有する写本目録にみられることとなります。このフリードリヒを通して、ハプスブルク皇帝家所有となり、ウィーンにもたらされたというのです。美術史の立場からは、W2644の特徴とトレントのフレスコ画との共通性が指摘されていますし、トレント大司教による発注(1390年代)というのが通説といってよいでしょう。
なお、W2644のf.88vからf.95はその描き方の違いから他の部分とは違う画家が描いたのではないかとされています。トルファによれば、この部分を請け負ったのはデ・ヴェリス工房です。
4 RC4182
W2644を請け負ったとされるデ・ヴェリス工房と協力体制にあったとされるミニアチュール画家に、トマジーノ・デル・ヴィメルカーテがいます。
彼はモデナの『黄金の書』の作成者としても知られ、ジョヴァニーノ・デイ・グラッシの息子サロモーネ(1379年頃生)と協力してヨーロッパ各地に残る多くの作品を残しました。
トルファは、彼がジョヴァニーノとサロモーネと協力して、ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの指示で作成したのがRC4182であると考えています。
実際のところ、RC4182には、作成時期を示す情報はまったくありません。したがって、この写本については、図像や記載順などの情報から類推するしか方法がないのです。
この写本の最大の特徴は、W2644にきわめて類似していることである。現存する写本の項目をみると、若干の順序の違いと、W2644の明らかな欠落(2項目のみ、目次にあるが実際の項目がない)を除けばほぼ一致しています。これは、ほかの写本と比較したときにみられる差異と比べて、きわめて特徴的です。図はほぼ同じ大きさ、形の赤い枠組みで描かれ、いずれも下段の説明も項目を赤で示し内容を黒字で示しています。個々の図のレイアウトも、ほかの写本と比べると似通っています。
W2644に比べて、RC4182に描かれる人間は少なく、一部の図版は異なっていますので、この両者をそのままコピーしたものとするわけにはいきませんが、きわめて近い形で制作されたものと考えられると思います。その意味で、トルフォが示すように、トマジーノ・デル・ヴィメルカーテという有能はミニアチュール画家を通じてW2644とRC4182が結びつくことも考えられないことではないでしょう。
5 R1088
最後に、アラーノが唯一15世紀に入ってから作成されたとしたR1088についてふれておきましょう。
R1088は他の写本と比べると小型で、内容的にも縮約形のようです。その図版はRC4182に類似しているとされていますが、一部にRC4182にはみられない項目もあり、単純にその直接的系譜をいうことはできません。アラーノは、描写方法にトスカナ美術の影響を指摘していますが、それもこの写本がトスカナ起源だというにはいうには十分とは思えません。トルファもまた、この写本については作者不明としか言っていません。おそらく他のTacuinum Sanitatisが作成されたあと、さまざまな地方の間で交流がなされた結果として作成されたものだと思われます。
Ⅴ Tacuinum Sanitatais構成と叙述方法
1 事項数
まず 取り上げられている事項数から考えましょう。
本来のTacuinum Sanitatis in medicinaは280の事項が載せられていたはずですが、図版がついているTacuinum Sanitatisは、一般にその数280よりかなり事項数が少ないという特徴があります。
たとえばW2644には206の事項があります。ただし、目次によれば、f.101v.の次に現存する写本にはない2つの事項(coytus,quies)が挙がっており、本来この写本には208の事項が取り上げられていたと考えられます。
RC4182は、前述のようにW2644にほぼ同じ内容をもっていますので、これが一つの標準の項目だったと思われます。P1673には206の事項がありますが、2つの図版がついている事項が2つあり、事項数としては204となります。
また、内容の面でもW2644にある事項でP1673にない事項、あるいはその逆の事項が20以上ある。L1041は項目数170でかなり少ないくなります。R1088は単独では項目数106で、かなり少ないですが、Sam Foggにあるものと合わせるとかなりW2644に近くなります。
図版入り写本の事項が少ない理由ははっきりしませんが、図版入り写本作成のもととなった文のみの写本が縮小形であったからとも考えられています。
2 記載順
続いて、記載順について。
文章のみのTacuinum Sanitatisを含めて、いずれの写本もイチジクに始まる点では一致していますが、記載順は写本によって若干の差異があります。
W2644とRC4182はきわめてよく似ています。
その流れにそって、おおまかな順序をいえば、
1.序文
2.果実、野菜、ハーブ、穀類関係、豆・カブ類。
3.春夏秋冬。
4.干ぶどう、干イチジク。
5.東西南北の風
6.乳製品、パン、鳥類関係、動物関係、魚類関係、ワイン関係、水、オイル、薬類、甘味と続く。
7.最後に、ロウソク、運動、部屋、感情、睡眠、音楽、織物など最初に取り上げるとされた6項目のうち、食物以外の項目に属する事項が取り扱われる。
いずれの写本においても、大部分(85%)が食に関するもので占められ、この写本が健康のために何を食べたらよいのかという点に力点がおかれていたことをうかがわれます。
3紙面の使い方
W2644、P1673、RC4182、P9333も基本的に1ページに1項目という形で描かれています。
各ページの最上部にタイトルがおかれ、大きく赤い枠で囲まれた図が描かれます。前述のように
1.W2644とRC4182はほぼ同じ大きさ、形の枠の図からなります。
2.P1673は、枠が一般に薄く細く、緑ないし青枠の場合もあり、少し縦長です。図版は事物だけではなく、1つの情景として示されています。
描かれいている情景はおそらく画家がデザインしたもので、身近なテーマについては当時の生活を映し出したものと思われます。
また、東方系の事物についてはエキゾチックな服装の人物が配置されています。多少イメージ先行かもしれません。また、P1673などは、地中海関係のものについては、あまり知識がないのではないかと思われるところがあります。宮廷の様子を描くときにはゴシック様式の建物が描かれています。これはP1673がイタリアではなく、フランスあるいは少なくとも北西ヨーロッパの影響の強いところで作成されたのではないかということをうかがわせます。
図の下では3,4行にわたって、取り上げられている事物について説明が書かれています。まず、熱いか冷たいか、乾いているか湿っているかをグレードつきで示します。続いて、それが効能を持つか、どのような問題点を持つか、その問題点のために克服するためには何をすればよいか、どのようなものを選ぶべきか、どのような人に向いているかが書かれているのです。
古代伝来の当時のヨーロッパ医学では、人体内には血液、粘液、赤胆汁、黒胆汁4つの体液があることされていました。人間は生来いずれかの体液が優勢であり、その結果個々人の「気質」が形成されるのです。また、年齢、性別などによっても支配的な体液が変わります。人間が健康であるためには、この4つの体液のバランスが取れていることが必要です。
つまり、養生をするということは、4つの体液のバランスをとることです。つまり、過剰な体液があれば排するか中和させ、不足する体液があれば補うことに務めるべきです。さらにさまざまな事物は、熱冷乾湿によって性格づけがなされ・個々の体液の性格(血液は熱・湿、粘液は冷・湿、赤胆汁は熱・乾、黒胆汁は乾・冷)に応じて、体液のバランスをとるために摂取することが望ましいものの位置づけがなされます。さまざまな事物が熱冷乾湿のうちどの性格をどのレヴェルで持っているかを簡潔に示したイブン・ブトランの健康表がわかりやすさを追求したことは、図版入り写本でも各事項がせいぜい3,4行でまとめられていることからもうかがえます。
Ⅵ 最後に
このように、『健康全書』は、古代医学の伝統を踏まえ発展したイスラーム医学の成果が、14世紀になって花開いた中世ヨーロッパのミニアチュール文化と結びついて結実したものといえよるでしょう。
もちろんこの『健康全書』の研究には図版そのものを示すことが不可欠です。ただ、図版は現在各地の図書館、文書館に所蔵され、その美しい図版から著作権の問題が発生します。このホームページように、誰でも見られるところにそのまますぐ見られるようにするわけにはいきません。
いずれ、希望される方にはごらんいただけるように、このホームページのレベルアップを図ります。また、具体的な内容についても
みていただくと、古来人がどんなふうにいろいろなものが健康に役立つか、あるいは健康に問題なのか、そういう知恵もご紹介していきたいと思います。