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ようこそ 西洋中世史/イタリア史/食文化に取り組む山辺規子のページです

4 S.Petronio サン・ペトロニオ

Bologna

Ⅲ 聖ペトロニウスの信仰

(1)実際の聖ペトロニウス
 ボローニャの中心的な守護聖人となっていく聖ペトロニウスは、おそらく4世紀末から5世紀初めにかけて活躍したセナトール貴族(ミラノで活躍したようである)の息子と思われ、ボローニャ司教となった人物です。おそらくガリア、イスパニアで聖職者となり、勉学に励んだあと、パレスティナとエジプトへ旅行し、有名なキリスト教関係の場所に滞在しました。その後イタリアに戻り、ローマにいるときに、教皇ケレスティヌス1世によって431~432年に亡くなったボローニャ司教聖フェリックス(イタリア語ではフェリーチェ)の後任のボローニャ司教に選任されたと考えられています。聖フェリックスは、394年当時ボローニャが属していたミラノ司教であった聖アンブロシウスによって皇帝テオドシウスのもとに派遣され、397年聖アンブロシウスの死後ボローニャ司教に選任された人物です。ボローニャの司教で聖人とされたのはこのフェリックスとペトロニウスのみです。
 ペトロニウスが司教となった当時のボローニャは、西ゴート族によって略奪された後でしたが、彼は、エルサレムの聖墳墓教会を模したサント・ステファノ教会をはじめ、教会を創建し、町の復興に努めたといわれる。おそらくは450年までに亡くなったと推定されています。

(2)ボローニャの守護聖人
 ボローニャの守護聖人としては、まず司教座聖堂が捧げられている使徒聖ペテロがいます。ボローニャの守護聖人と呼べるのは、12世紀まで聖ペテロのみだったともいわれています。 しかし、聖ペテロといえば、ローマ教皇、つまりローマ司教がその後継者であることをもって教会における至上権を主張している存在です。一方、ボローニャの教会の管轄権については、教会改革期にラヴェンナ大司教座とミラノ大司教座の間で争われていました。さらに形式的にボローニャが教皇領に属するとされるようになると、ボローニャの独立を考えるときに、については、ローマ教皇にあまりにも近い存在である聖ペテロを積極的に都市の守護聖人とすることは、必ずしも歓迎されませんでした。
 聖ペトロニウス称揚に大いに関係するミラノの聖アンブロシウスもまた、ボローニャの守護聖人のなかに位置づけられています。ただし、後述するように、聖アンブロシウスの場合にも、ミラノとの関係によって、微妙な状況におかれることになります。このほか、ボローニャにとって重要なサント・ステファノ教会に聖遺物がある殉教者として聖ヴィターレと聖アグリコラがいます。
 伝説的な聖人として注目しておかねばならない聖人としては、殉教したとされる聖プロコロがいます。A.I ピーニによれば、聖プロコロに捧げられた教会は、11世紀後半にボローニャ伯の一族によって建設されたものと推定されますが、この時の聖プロコロはファエンツァ経由でウンブリアの同名の聖人信仰が入ったもので、サント・ステファノ教会とライバル的な位置にあったとされています。 そのため、中世後期のボローニャにおける対立構造にあてはめて、しばしば、サント・ステファノ教会がグレゴリウス(7世)派・コムーネ派・ゲルフ派・ジェレメイ派・ボローニャ出身シニョーリア派であるのに対して、サン・プロコロ教会は反グレゴリウス派・ボローニャ大学派・ギベリン派・ランベルタッツィ派・教皇領推進派という位置づけがなされたりもします。しかしながら、この対立にはかなり無理があるように思われます。
 実際、この教会に祀られる聖プロコロがボローニャ人で皇帝の役人によって打ち首になった殉教者であるとされるようになったのは、ボローニャにおいて皇帝とコムーネの仲が悪くなった時期であると推定されています。このことからも、この教会が皇帝派であるとは言いがたいと言わざるを得ません。
 実は、サン・プロコロは、ボローニャの4つの地区名の中に位置づけられ、1256年におこなわれた奴隷解放においても資産規模が大きい住民が多いことが知られています。この時の財産規模の状態を考えますと、13世紀のボローニャの経済発展の担い手がこの地区にいたことがうかがえます。 また、ボローニャの名前を高らしめた大学も、サント・ステファノ教会の前の広場を講義などに使用したり、最初にも述べましたようにテオドシウス帝によるボローニャ大学設立文書作成に関わってサント・ステファノ教会とつながりを持っていたりしたことも知られ、簡単な二項対立で語ることはできないのです。聖プロコロは、このあとルネサンス期につくられるアルカにおいて、守護聖人の中に数えられていることが確認できます。
 都市コムーネ体制が成立してからのち、ボローニャの聖人に名前を連ねることになるのが、聖フランチェスコと聖ドミニクスです。特に聖ドミニクスは、この聖人がボローニャで亡くなりその遺骸がサン・ドメニコ教会にあり、聖ドミニコ会が大学と関係の深い修道会であることが、その存在は特に考慮を要すると思われます。
 以上のような状況を考慮すれば、ボローニャという都市が、さまざまな勢力の狭間にあって、この都市の守護聖人として崇敬される可能性は、決して聖ペトロニウスのみにあったわけではないことがわかるでしょう。その中で、聖ペトロニウスが選択され、他の聖人とはまったく異なる大きな存在となっていくことに注目してみましょう。

(3)12~13世紀の聖ペトロニウス信仰 
 1141年、ボローニャ司教エンリコがサント・ステファノ教会で、聖フロリアヌスや他に40人の同行者の遺物とともに聖ペトロニウスの聖遺物を発見したとされます。
 この時まで、ボローニャにおける聖ペトロニウスにふれている史料はほとんどありません。この「聖遺物発見」が、聖ペトロニウス信仰の事実上の出発点であるといえるでしょう。この年には、司教座聖堂が火災により大きな被害を被っており、司教としてはボローニャにおける教会体制再建の必要がありました。おそらく司教エンリコは、エルサレムに直結する教会であるサント・ステファノ教会(修道院)に、この修道院の建設者である聖ペトロニウスの遺骸があることがふさわしいと考えて、ここで「聖遺物発見」をおこない、支援を得ようとしたのだと思われます。この司教による「聖遺物発見」を告げる説教のあと、ボローニャの聖職者や都市の役職者が参加して、この聖人たる昔の司教をボローニャ統合のシンボルとする儀式がおこなわれたといわれています。  
 12世紀後半から13世紀初めにかけて「テオドシウス皇帝によるボローニャ大学創立文書」が偽造されたことも思い出しましょう。ボローニャ大学は、少しずつ形を整えていった大学であり、特定の年を創立とするわけにはいきません。しかしながら、現在1088年が創立の年とされているように、その始まりと権威を必要としていました。それが法律に関係深いと考えられている皇帝テオドシウスの名前に結びつけられたといえるでしょう。この偽文書がいつ作られたのかははっきりしませんが、大学関係者にも都市の関係者にも受容され、ボローニャは「王の町」とされたのであることはまちがいありません。
 この伝承にも聖ペトロニウスと聖アンブロシウスが関わっているとされています。正確な時期については諸説がありますが、同じ時期に聖ペトロニウス伝が書かれたと考えられています。大学設立にしても、この聖ペトロニウス伝にしても、2人の皇帝テオドシウス、つまり1世と2世が混同されている点に共通点をもっています。

 伝説を簡単にまとめると次のようになります。

 ペトロニウスはコンスタンティノープルにいる皇帝テオドシウス2世の義弟で、すべての学問に通じた人物でもあり、敬虔な人物でもありました。彼はローマへ行く途中、後継者を求めるボローニャ司教の使者に会います。教皇ケレスティヌス1世の夢に聖ペテロが出てきて、ペトロニウスをその後継者に指名し、テオドシウス1世によって破壊された町を再建させるように言ったというのです。
 ペトロニウスは、ボローニャに赴きます。そこで、ボローニャが皇帝の代官の圧政下にあってひどい状態であることを知り、これに対応するためにコンスタンティノープルに帰る必要を感じました。この代官はボローニャの人々にたいへん嫌われていて殺されてしまうことになります。
 コンスタンティノープルにおいて、テオドシウス2世は話を聞き、ペトロニウスに「ボローニャの町の再建のために、必要ならば帝国内のどこへ行ってもよく、何をしてもよい」という特権を与えました。そこで、ペトロニウスは、帝国内各地で聖遺物を探しました。その後、ローマでさらに聖遺物を獲得して、「イエス・キリストによって選ばれた私の町」へと向かうことになります。
 ボローニャでは、あらかじめペトロニウスの帰還を知らされていたミラノ司教聖アンブロシウスが待っていました。ペトロニウスは、聖アンブロシウスとラヴェンナの聖ウルシキヌスとともに、皇帝の特権を宣言し、厳かな宗教行列をおこない、目立つ場所に4つの十字を置いて都市の再建をしました。ペトロニウスは、教会や病院、塔や家を建設し、正義を守り、生活をよりよいものにしたのです。その中には、彼が聖地で集めてきたすばらしい聖遺物のために、聖墳墓教会に似せるかたちで建設したサント・ステファノ教会がある。また、サン・ピエトロ教会(司教座聖堂)の建設にも手を貸し、この町に学生を引きつけることにも力をつくしました。

 これが12世紀以降に信じられていくことになる聖ペトロニウス伝説です。聖ペトロニウスは、ボローニャの自由の象徴でもあり、町や教会、大学を再建した人物として位置づけられたといえるでしょう。

 それでも13世紀半ばまで、ボローニャの守護聖人といえば聖ペテロでした。それが変化するためには、まだかなりの時間を要しました。
 1250年に制定された都市条例には、聖アンブロシウスに対する献納の規定がみられますが、聖ペトロニウスに対してはありません。 翌1251年、教皇インノケンティウス4世がサン・ドメニコ教会とサン・フランチェスコ教会に献堂式をおこないますが、聖ドミニクス、聖フランチェスコが守護聖人に名前を連ねることになります。その後1253年になって初めて、コムーネが聖ペトロニウスの祭日(10月4日)に40本のろうそくを献納するという記録が出てきます。 1284年12月14日の都市コムーネの命令において、神、聖母マリア、聖ペテロと聖パウロ、聖ドミニクスと聖フランチェスコ(単にConfessorsとされる)に続いて、この町の聖なる守護者として、聖ペトロニウス、聖アンブロシウスの名前に言及されました。
 1288年の都市条例において、都市コムーネの役人は聖ペトロニウスのもとに参詣するものとされます。この時期になると、聖ペトロニウスに対する信仰は、ボローニャ都市政府が公的に認められるものになったことがわかる。1298年、コムーネはが聖ペトロニウスと聖アンブロシウスの像が描かれた色の絹の軍旗をつくるように命じます。 
(4)14世紀の聖ペトロニウス信仰とサン・ペトロニオ教会建設
 14世紀に入ると、聖ペトロニウスの位置づけは、さらに特別なものになります。
 1301年、都市コムーネと教会の顕職にある者とアルテとアルメの代表全てが参加して、聖ペトロニウスの祭礼がおこなわれるように命じられます。一方、典礼集において聖ペトロニウスの名前が呼ばれるように規定されるようになりました。
 1307年には聖ペトロニウスの遺骸があるところで治癒の奇跡がおきたことが伝えられています。
 1315年10月には、コムーネがサント・ステファノ教会に対して毎年25リブラを納めるとしました。この頃になれば、まさしく聖ペトロニウスがボローニャの守護聖人とみなされるようなったといえるでしょう。
 1376年、聖職者に加えて、都市コムーネとアルテの要職にある者によるプロセッションが、聖ペトロニウスのためにおこなわれることが決定されました。また、その際の供物は、サント・ステファノ教会のコミュニティのためではなく、この聖人の聖遺物台のためのものとされました。 この聖遺物台には、tempore libertatis regiminis popularis et artium communis Bononiae「ボローニャのコムーネのアルテとポポロの自由な制度の時代に」と刻まれています。
 そして、ボローニャが、形式的には教皇の支配にありながら事実上ポポロ組織の支配となった時期に、ボローニャの中心広場に聖ペトロニウスに捧げる巨大なサン・ペトロニオ教会を建設することが決定されました。
 1388年、ボローニャ市の六百人評議会は、サン・ペトロニオ教会の建設を決定します。場所は、主力アルテである公証人アルテの建物に隣接するところで、用地接収の作業が始められます。その対象には、コムーネ成立以来都市政府の活動にしばしば使われてきたサン・アンブロジョ教会とそのクーリアも含まれていました。これは、聖アンブロシウスが、あまりにもヴィスコンティのミラノを思い起こさせるために、姿を消す対象になったと考えられています。それでも聖アンブロシウスは、聖ペトロニウス伝説に欠くことができない存在だけに、ファサードや教会内に像として描かれています。
 1390年 サン・ペトロニオ教会の建設のために、商人、両替商、刺繍職人など当時の有力アルテのメンバーが加わるファブリカFabbrica(建設委員会)が設立され 、建築主任者には、この時期ボローニャの公共建築の建設や改築、増築に関わったアントニオ・ディ・ヴィンチェンツォAntonio di Vicenzo(1401/ 02年没)が2月26日選出されます。 同じく、1390年、教会の礎石を置く儀式がおこなわれました。この儀式は、司教座聖堂であるサン・ピエトロ教会において司教によって祝福をうけたのち、ボローニャの聖俗の要人がボローニャの市章が刻み込まれた石を持ち、教会建設予定地までプロセッションするかたちでおこなわれました。
 当初の計画は、アントニオが作成したという模型も具体的な設計図も残存しておらず、詳細は確認できませんが、契約によれば、ラテン十字でサン・ピエトロ・イン・ヴァティカーノ大聖堂を上回る大きさ(奥行183m幅137m)を持っていて、当時建設が始まっていたフィレンツェの新大聖堂(サンタマリア・デル・フィオーレ教会)に近い構想であったと考えられています。この規模はあまりに大きすぎるということで、後に、奥行132m幅66mに縮小されることになります。
 その規模がきわめて大きかったために、費用も建材も膨大に必要とされました。資金源としては、都市が徴収する税金、罰金のほか、1393年聖ペトロニウスの祝日の参詣者に対して教皇が認めた贖宥対する喜捨があてられましたが、さらに建物内の礼拝堂の権利も売却されました。建材は、周辺地域から石材が運ばれたほか、当該地域にあった建物の建材も利用されました。 
 サン・ペトロニオの教会建設は、中心広場に面している北面のファサードに始まり、南へと進んでいき、1401年までに両側2区画計8つの礼拝堂が完成しました。とりあえず第1期工事が終了するのは1479年ですが、その後も幾度となく建築計画は変更され、現在もファサードなどは未完成のままです。
 未完成であるにもかかわらず、この大きな市民聖堂は、教皇や高位貴族の入市式や説教の場となった。この教会を利用した歴史的にもっともよく知られる儀式は、1530年2月24日に教皇クレメンス7世による神聖ローマ皇帝カール5世の戴冠式です。また、1547年から1451年には、トレント(トリエント)公会議のセッションがここで開催されました。
 16世紀以降近代イタリア王国が成立するまで、ボローニャは教皇領の第2の都市として教皇の支配下にありましたが、このサン・ペトロニオ教会は、ずっとボローニャ市民教会として位置づけられ、教会による正式の献堂式は1954年でした。また、何度か儀式のためにサント・ステファノ教会から運ばれてきた聖ペトロニウスの聖遺物が、正式に移されるには2000年を待たねばなりません。
 
 イタリアの都市は基本的に司教座が置かれており、市民統合の象徴となる母なる教会はしばしばドゥオーモと言われる司教座聖堂です。司教座聖堂は、聖母マリアや聖ペテロなどのよく知られた存在のほか、その都市に関わるローカルな聖人に捧げられる場合もある。たとえば、ボローニャの隣町であるモデナの司教座聖堂は、モデナの守護聖人であるモデナ司教聖ゲミニアヌス(サン・ジミニャーノ)に捧げられています。ゲミニアヌスはその関係を示すために司教座教会を持っている姿で表されています。
 これに対して、ボローニャの聖ペトロニウスは都市を持っている姿で描かれていますが、その教会であるサン・ペトロニオ教会は司教座教会ではありません。
 司教座聖堂が別にあるにもかかわらず、別の教会が尊崇を集めた例としてはヴェネツィアのサン・マルコ教会がありますが、この教会の場合には、ヴェネツィアの統治者であるドージェの礼拝堂であり、また祀られている聖人は格が高い聖人です。
 このような他の都市の例と比べると、実際にどのような人間かよくわかっていないローカルな聖人を祀る教会が、聖ペテロに捧げられた司教座聖堂ではなく、都市の最大の中心的教会であるボローニャの例は注目に値するといえるでしょう。
 聖ペトロニウスは、ボローニャという都市の発展と統合の象徴としてするべくつくられた守護聖人です。聖ペトロニウスに対する信仰、その聖人を祀る教会としてのサン・ペトロニオ教会のありかたをみることによって、ボローニャに存在したさまざまな対立を乗り越えて市民統合が図られていくことをみていくことができるといえましょう。

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