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中世ボローニャ史

中世ボローニャ史

Ⅰ はじめに―ボローニャ市とは



 ボローニャは、北イタリアの交通の要衝に位置します。人口は約40万人。周辺部分を含むボローニャ県全体では95万人を超えます。
ローマからフィレンツェを経て北へ向かうと、アペニン山脈が切れ、ポー川の流れる平原が開けてきます。ここで、ロンバルディア平原を北西に向かうミラノへ行く道と北東に向けってヴェネツィアへ行く道が分かれます。この分岐点ボローニャがあります。ここはまた、ミラノからローマへ向かう道とアドリア海沿いに向かう道の分岐点でもあります。

 中世イタリア、とりわけ北・中部イタリアは都市が発達したことで知られます。12-13世紀のイタリアの都市は、皇帝などの外部勢力に対してロンバルディア同盟のような都市同盟を形成して自治権を主張したことで知られますが、都市の中には皇帝派の都市もあったし、また反皇帝派の都市の中にも皇帝と結びつこうとする勢力があって、決して一枚岩ではありません。しかも、その内部では、ほとんどどの都市においても常に党派対立が存在しました。さらに、急速に拡大していく都市は、たいてい隣接する都市との間で勢力争いをすることになりましたし、市内においては、市外から流入する人々や新しい商工業勢力が、既存の支配勢力に対して権利を求めて争乱をおこしました。そういう意味で、一方で商業的に繁栄し、都市文化の花が開いたイタリア都市ですが、それぞれの都市の歴史を辿れば、紛争の連続なのです。
 このようなイタリア都市のありかたについて、特に注目されてきたのは、とりわけ商業的に繁栄し、文化の花が開いたフィレンツェであり、ヴェネツィアであるといえましょう。この2つの魅力的な都市がいずれも基本的に中世を通じて「共和国」であることを誇ってきたこと、そして歴史的に、民主的で自由な都市であることに価値がおかれてきたために、イタリア都市といえば、その印象が強いように思われます。どちらもすばらしい都市であり、ここでも別のところで、このすばらしい都市については扱います。

 しかしながら、多くのイタリア都市では、引き続く紛争を収めるために、しばしば特定の個人、あるいは特定の勢力に頼った。中世末には都市のアイデンティティは強く意識されるものの、君主制に移行したり、大きな勢力のもとに入ったりします。そのような面に着目すると、中世後期の北・中部イタリアは、ある程度の領域国家による支配体制の世界として捉えられます。
 このような中で、ボローニャは、大学が生まれた都市として知られ、文化面でのイメージが強い都市です。しかし、政治的には、中世末期には諸勢力の狭間にあって結局教皇領に組み入れられていくだけに、日本において中世イタリア都市の事例としてそれほど注目されてきたわけではありません。一つには、まずアプローチしやすい英語による研究があまり出されなかったこともその原因でしょう。ボローニャはあまり英語圏の研究者にとって魅力的な町ではなかったようです。大学の歴史を語るときにも、ガウンの成長にプラスにならないとされてきましたし、世界的なルネサンス芸術家を生み出したわけではないことも、ルネサンス史の研究者が古くて打破すべき学問のイメージを与えたことも、その理由ではないでしょうか。しかし、最近では英語でも豊富な史料を駆使した研究 が続けて出されています。たとえば、中世後期からルネサンス期の兄弟団の研究をしているNicholas Terpstra, Lay Confraternites and Civic Religion in Renaissance Bologna, Cambridge: Cambridge University Press, 1995,黒死病の時の対応を公証人記録から論じたShona Kelly Wray,Communities and Crisis. Bologna during the Black Death, Leiden: Brill. 2009.中世後期の政治体制と裁判のありかたからボローニャ社会の寡頭的体制を論じたSarah Rubin Blanshei, Politics and justice in late medieval Bologna, Leiden: Brill, 2010などが挙げられるでしょう。また、イタリアの研究者も最近では英語での情報発信をするようになりました。もともとイタリアにおいてボローニャは、中世史研究に大きな中心であり、さまざまな研究がなされてきましたから、研究の蓄積はあります。その成果を生かし、中世イタリア都市の多様性を示すという点から、ボローニャを取り上げることには意味があるでしょう。

1. 古代のボローニャ



 ボローニャがある場所には、先史時代紀元前11世紀に既に人が居住していたと推定されており、エトルリア人によってフェルシナ(Felsina)という名前の町が作られたのが町の起源とされています。その後、ガリア人(ケルト人)のボイ族がエトルリア人に取って代わり、ボノニア(Bononia)と呼ばれるようになります。ボノニアとはボローニャのラテン語名であり、これがボローニャの名前の起源です。やがて、紀元前189年、ローマ人がこの地を占領し、3000人の植民市とした。現在ボローニャ市の中心をエミリア街道が走っていますが、まさにローマ人によってこの場所が占領された時期が、ロンバルディア平原の中心近くのプラケンティア(Placentia 現ピアチェンツァPiacenza)からアドリア海沿岸のアエミリニウム(Aeliminium 現リミニRimini)までを結ぶエミリア街道の建設期にあたります。このエミリア街道は、ローマ帝国時代、さらに南に進む街道につながり、ローマをめざす幹線として活用されました。

 ローマ時代のボノニアは約50ヘクタール、周囲が2500mで、人口1万から1万5000程度の町だったようですが、帝政後期には既に衰退していたと考えられています。そのことは、392年にこの町を訪れた聖アンブロシウスの「半ば破壊された町の亡骸semirutarum urbium cadavera」ということばに象徴されています。

 つまり、たしかにボローニャはローマ時代にも人が住む町でしたが、西ローマ帝国の滅亡と同じころ、いったん都市としての機能を失い、中世に再生したといえるでしょう。

2. 中世前期のボローニャ

 
 現在でこそ、エミーリャとロマーニャは一つの州ですが、ボローニャを境にして東と西ではかなり性格を異にします。言い換えれば、ボローニャはまさしくこの2つの異なる性格を有する地域の境界線に位置しているということになります。

 中世前期8世紀まで、ボローニャの東には、ラヴェンナを中心とする東ゴート王国、続いて東ローマ帝国の支配領域がありました。これがローマ人の土地ということでロマーニャと呼ばれる地域で、ラヴェンナ総督領とペンタポリスからなっていました。一方、568年にランゴバルド族が南下すると、ポー河の大きな平原にランゴバルド王国(イタリア王国)ができます。その支配領域がいわゆるロンバルディア(ランゴバルディア)で、現在のロンバルディアよりも広い地域を含んでいました。このロンバルディアとロマーニャ、つまりランゴバルド王国とビザンツ帝国の勢力の境界とされたのが、モデナとボローニャの間のパナロ川でした。そのため、ボローニャは都市というよりまさに前線基地であり、史料でもoppidumと呼ばれていました。

 728年には、ついにランゴバルド族がボローニャを占領しました。ランゴバルド人たちによって、旧来の町の東側に新たな半円形の定住地(addizione logonbardo)がつくられました。このポルタ・ラヴェニャーナporta ravegnana広場を中心とした定住地には、リミニに向かう旧エミリア街道、ラヴェンナに向かう街道など大きな街道が開けていて、この時期にはおそらくもっとも多くの人々が住んでいたところでした。
 この時代までに、ボローニャの市域は、ローマ時代のボノニアの半分以下の約21ヘクタールになり、周囲1750mの城壁で囲まれていまた。1927年になって考古学調査によってその存在が確認されたこの城壁は、通常歴史家によってSelenite城壁と呼ばれています。
 Selenite城壁の建設時期については、さまざまな推定がなされています。この城壁の存在を確認した建築家Finelliは、5世紀初めと推定したのに対し、1930年代から40年代の歴史家は、ランゴバルド人による建設、あるいはさらに遅く10世紀のマジャール人の侵入期の建設と考えました。
 一方、1960年代にボローニャ市史研究において大きな影響を持ったG. Fasoliが東ゴート王テオドリクによる建設(6世紀初め)と同定したことによって、東ゴート時代の城壁という説がよく知られるようになり、清水廣一郎氏の示したボローニャ発展の図においても、「東ゴート時代の城壁」と示されています。
 これに対して、最近では、A. I. Piniがビザンツ時代の641年に建設されたという考えを示しています。

 ここでは、いつの時期かはともかくとして、
(1)中世前期のボローニャが古代ローマ時代の半分にも満たない市域しか持っていなかったこと
(2)北西部に皇帝の城Palatiumがあったこと
(3)かつては城壁の外にあったと考えられていた司教座聖堂が、早い段階に城壁内にあったこと
(4)この市域の中も必ずしも家屋が密集していたわけではなく、教会が管轄する果樹園などが広がっていたとされること
(5)10-11世紀にボローニャ伯と呼ばれる人の存在は確認できるものの、あまり強力ではなかったこと
(6)他のロンバルディアの都市なら都市領主として位置づけられるはずの司教の権威も、東ローマにつながるラヴェンナ大司教と西のパヴィア大司教の対立の境界に位置して微妙であったこと
(7)現在、このSelenite城壁の一部がPiazza Maggiore近くでみることができること

以上の点について確認しておきましょう。

 
 このようなことからもわかるように、12世紀の初めに、コムーネとして成立するまでのボローニャは、決して注目できる都市ではありませんでした。

 中世前期に、アルプス以北とローマをつなぐメイン・ルートとなっていたでフランチージェナ街道に面しているわけでもなく、ポー川に直接つながっているわけでもないために、水運の面でも恵まれていませんでした。10-11世紀のポー川流域の開発は、この地域の発展につながったとはいえ、ボローニャが抜きん出た位置につけたわけではありません。

 つまり、都市そのものの形態、自然環境、物流など交通・経済をめぐる環境、政治的状況、いずれを考えても、ボローニャは大した都市ではなかったのです。

3. 12世紀のボローニャ

 11世紀末から12世紀初めの時期において、ボローニャは急速に存在感を増していくことになります。この都市の発展において決定的であったのは、法学を学ぶ地としての名声です。とりわけ11世紀末から12世紀初めのイルネリウスの存在は決定的でした。イルネリウス、そしてその弟子たちとローマ法を学べる場として名を上げたボローニャには、多くの学徒が集まるようになり、それとともに、都市も発展していくのです。

 イルネリウスが活躍していた1115年、ボローニャの人々は、城壁の北西部に位置していた皇帝の城館palatium、つまり皇帝の政治権力の象徴を破壊しました。

 同年教北イタリア最大の封建諸侯だったカノッサ辺境女伯マティルデが亡くなったことが、北イタリアの政治的状況を変えます。ボローニャとマティルデとの関係については、必ずしもはっきりしたことはいえません。しかしながら、ボローニャの伯権力は弱く、近隣の都市とマティルデとの関係の深さを考えると、マティルデが姿を消し、その広大な所領が正統な継承者を欠いていたことによって、ボローニャ付近にも権力構造の一種の真空状態が生まれていたことは否定できないでしょう。

 いずれにせよ、翌1116年ボローニャ市民はハインリヒ5世から保護と特権を示した文書の発給を受けました。
 1123年には、初めてコムーネのコンソリが活動していることが確認できます。
 通常、この1115/6年ないし、この1123年をもってボローニャのコムーネの誕生とされます。

 ボローニャは、まずは独占的に法学の研究の場という知的環境を整備したことによって、発展しました。法学研究なくして、ボローニャの発展はなかったといえましょう。ここではタウンの発展はガウンによって支えられていたのです。また、ガウンも、学問をするのにふさわしい場所としてのタウンの名声を必要としました。

 一般に、12世紀はローマ法の継受の時代であり、古代ローマへの意識の復活の時代とされますが、なかでも、都市ボローニャは、古代ローマを強く意識した拡大を図り、プロパガンダを展開することになります。これを特徴づけるのが王都としての位置づけ、テオドシウスによる大学設立伝説です。
 この伝説は、西方においてローマ法に結びつく皇帝テオドシウス(イタリアでは俗化したローマ法はテオドシウス法と呼ばれ、人々の慣習法となっていた)の支援を得て、ボローニャの伝説的司教聖ペトロニウスが聖アンブロシウスの助力を得て、ボローニャを再建し、テオドシウスによって大学がつくられたという伝説です。この伝説は、12世紀につくられ、13世紀には公式のものとなっていくことになります。 それが象徴的に示されるのが、テオドシウス帝による大学設立文書です。いうまでもなく、この文書は偽文書です。字体を見ても、これが12-13世紀初めに作成されたことは明らかです。
ボローニャは、文書作成術でも知られるところですから、見る人が見れば、これが偽文書であることは当時でもわかったのではないかと思いますが、この文書は当然のように公文書として扱われました。
 1150年代、皇帝フリードリヒ・バルバロッサとの会見で、教授や学生が「ここには勉強に役立つものが揃っている」と言っており、12世紀においてボローニャは既にdoctaと呼ばれる都市として独自の立場を歩むことになっていました。この皇帝フリードリヒ・バルバロッサが法学を学ぶ学生の権利を確認したり、イルネリウスの弟子である4人の法学者が皇帝のためにロンカリア立法で活躍したりしました。
 しかし、1163年には皇帝によってボローニャの市壁が破壊され、翌年には皇帝指名の代官を殺害するなど、皇帝との関係は悪化しました。ボローニャは、1167年にロンバルディア同盟に参加し、1176年のレニャーノの戦いで勝利を収めた後、1183年コンスタンツの和で事実上都市としての諸権利を承認されました。同年、反皇帝のミラノ出身のポデスタPodestàが着任するなど、ミラノとの関係が強化されました。

4. 13世紀のボローニャ

 13世紀に入るころのボローニャでは、同職組合であるアルテArte(societas artis)と地区別自衛組織であるアルメArme(societas armorum)がポポロPopolo(民衆)組織として形成されていました。 ポポロというのは、定義しにくいことばですが、あえていえば、それまでの都市をリードしていたのではない新市民や商工業に基盤をおいて力を伸ばしてきた人々です。つまり、都市の政治に参加することが十分にできていないが、かなり力を持ってきた人々と考えてみてください。
 このような組織の中から、特に有力で早くに形成されたアルテである商人、両替商などのアルテが1217年に市政に参加し、一般評議会Consiglio Generaleが創設されました。しかし、1219年にはコンソリを出し続けてきた都市貴族がおこした反動的動きにより、アルメは解散させられました。
 これに対して、1228年商人アルテのジュゼッペ・トスキGiuseppe Toschiが反乱をおこし、アルメを再結成し、多くのアルテが市政に参加することになりました。このようなアルテ、アルメの市政参加は、ポポロ組織の確立を意味するとされますが、それはまたポポロ組織そのものの閉鎖化を意味しました。1248年、20のアルテと24のアルメ組織が、ポポロの代表たるアンツィアーニAnzianiを選出する権利を持っていましたが、この年に制定された規則では新規のアルテ組織は禁止されていたことにも注目しておきましょう。
 1250年代にはポポロ組織の長としてのカピターノ・デル・ポポロCapitano del Popoloがおかれ、コムーネ政府に似た組織をもち、事実上コムーネの一機関として機能するようになります。しかしこの時にも、同職組合のアルテに参加できない職業に従事するものがいましたし、既存のアルテ、アルメ組織への参加についてもカピターノ・デル・ポポロとポポロの評議会が参加基準を決めるとしたために、次第に閉鎖化が進んでいきます。すなわち、下等とされた職種のアルテは認められませんし、外来者の加入も、特に招聘に値するものでなければ認められません。市民civesが支払う税とは異なる税の対象であるコンタードの出身で、公共事業に従事する義務をもつフマンテスfumantesが加わるのも難しくなっていました。 
 一方、ポポロ組織に加わることに制限を受けていたのは、都市貴族も同様でした。都市貴族は、アンツィアーニやポポロの執行機関に入ることができないとされました。とはいえ、1260年代までは特に禁止規定があるアルメ以外のアルメのメンバーであればポポロ評議会に加わることもできましたし、ポポロの評議会で賢人sapientesとして活動することもできました。しかし、1274年のランベルタッツィ派の追放が、貴族排除を厳格化させることになるります。
 ボローニャにおける党派対立といえば、ジェレメイ派とランベルタッツィ派の対立が有名です。この2つの党派対立は、かつての簡単な図式によれば、ジェレメイ派が教皇派で民衆派、ランベルタッツィ派が皇帝派で貴族派となりますが、もちろんこのような単純化して捉えることはできません。それは、形の上でボローニャが教皇支配とされても、ジェレメイ派が協力的であったとはいえないことからもうかがえるでしょう。党派としては有名であっても、この2つの党派の形成もはっきりしません。1つの家でどちらの党派にも名前がある家もありますし、党派の名前になっているうちジェレメイはその中心的な家の名前ということさえできません。おそらくは、さまざまな対立がこの2つの党派に収斂していたものと思われ、近隣諸都市との戦争にいかに関与するかという点をめぐる対立が、1274年になって爆発したと考えた方がいいでしょう。
 1274年の両者による騒乱は、いったんポデスタの仲介により和解にいたりますが、多くのポポロがジェレメイ派につき、結局ランベルタッツィ派は追放されることになります。この時につくられた追放者のリストは約4000名であり、家族を伴ったことが知られているために、おそらく1万人を超える人々が追放されたと考えられています。 ランベルタッツィ派は、1279年に形式的にせよボローニャを支配することになった教皇の介入でいったん帰還しますが、すぐにまた追放されてしまいます。
 このランベルタッツィ派の追放者リストを作成したのは、公証人教授のロランディーノ・パッサジャーリRolandino Passaggeriです。ロランディーノは、公証術の大成者として知られる学者で、公証術のテキストは彼の名前で呼ばれていたと言われます。彼の手により、1280年代に繰り返し反マニャーティAnti- Magnati規定が出されていくことになります。
 この場合のマニャーティとは、ランベルタッツィ派だけにとどまりません。ポポロを代表し、1300年に亡くなるまで市政をリードしたロランディーノは、ジェレメイ派とも対立し、問題をおこす貴族を略奪的な狼lupi rapacesとして財産没収の対象としました。この「反マニャーティ規定」は「至聖なる規定Ordinameti Sacratissimi」として、1288年に編纂された都市条例の中に組み入れられ、ポポロ組織がコムーネを動かすようになったと考えられています。

5 14世紀のボローニャ

 ロランディーノが秩序維持のために厳しい規定をつくったにもかかわらず、ボローニャの党派対立は終わりませんでした。教皇ボニファティウス8世の介入によって、ランベルタッツィ派は再びボローニャに戻ります。この際ボローニャに帰還したランベルタッツィ派には、さまざまな条件のもとで再度追放される者もいれば、いかなるときでもカピターノ・デル・ポポロの命令で町を離れることを容認し、ジェレメイ派と和解のキスをかわすことでジェレメイ派と結ぶことも受け入れてアルメやアルテに加わることを認められる者もいました。後者には、コムーネの軍隊に入ることができないばかりでなく、コムーネの軍隊の馬に関わる費用を支払う義務があり、ジェレメイ派よりも重い税金を払う義務がありましたが、それでも1306年にボローニャを追放されたのは200人程度であり、これが最後のランベルタッツィ派追放となります。
 1306年という年は、アヴィニョン教皇時代の始まりの年でもあります。教皇はアヴィニョンにいて、教皇が派遣する教皇特使が、聖務停止命令などを繰り返し出してイタリアの支配をおこなうことになります。
 ボローニャでは1327年に教皇特使ベルトラン・デュ・プジェBetrand du Pougetが着任し、ボローニャのシニョーレSignoreであると宣言するに及んで、ボローニャのポポロ政府による自治の時代は終わるとされます。しかし、このベルトランも1335年に追放され、1337年から1350年まで、タッデオ・ペーポリTaddeo Pepoliとその息子たちが「平和と正義を守る者」「(教皇の)代官」といった称号を有して、ボローニャを支配します。
 この息子たちは、1350年に、ミラノ大司教でミラノのシニョーレであるジョヴァンニ・ヴィスコンティにボローニャの統治権を譲ります。ヴィスコンティの名の下に、その後には個人的な支配者としてジョヴァンニ・ダ・オレッジョGiovanni da Oleggioが支配する時期が1360年まで続きます。この年、オレッジョは、教皇使節で教皇領の確立に力をつくすことになる枢機卿アルボルノスに、ボローニャを委ねました。アルボルノスは1367年ボローニャで亡くなり、その跡を継いだ教皇使節は1376年に起きた反乱により、ボローニャを去ることになります。
 1377年から法学者ジョヴァンニ・ダ・レニャーノGiovanni da Legnanoが、教皇の代官として認められて支配しました。1383年に彼が亡くなると、その代官としての権限はポポロとアルテのシニョーリアに委ねられ、14世紀末までこの体制が続きます。つまり、14世紀のボローニャは、教皇の強力な代官とヴィスコンティという大勢力の狭間にあって、その中を揺れ動きながら、ボローニャ市民によるポポロの組織体制に始まり、ポポロ支配体制で終わったといえるでしょう。

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